人は個人でいる場合と集団でいる場合では、別の側面を示すようななる気がします。
個々を比較した場合、人間はさほど大きな力の差はないので、その関係も限定的なものになります。
しかし、集団となればその力の差は大きくなり、いきすぎた関係になる場合があります。
戦争がその最たるもので、国として集団が味方である個の犠牲を前提として、国の利益を得るため他国を自国の利益になるよう行動するのがその事例となります。
これは戦争のような国家レベルの集団でおこるだけのものではありません。
会社でも同様なことがおこります。
昨今 問題になっている 過労死やパワハラも、本質的な構造としては同じで、その集団で力を持った人が、集団で力が無い人に対して行う行為であり、戦争のような殺し合いを前提としたものではありませんが、集団や指示している人の利益のため、同じ集団の個に犠牲を要求しているものになります。
この性質は、我々がクロマニョン人と呼ばれているころから変わっていないそうで、アフリカを出て集団になり始めた頃の人の遺跡からも、集団の序列 他の集団に対し好戦的だったことを裏付けるものが出土しているそうです。
このことは科学技術が進んでいるだけで、人間はクロマニョン人と呼ばれている頃と現在とでも本質的に何も変わっていないようで、戦争が世界の何処かで常に起こっているのも、その事実を示すもののようです。
今は戦争の雰囲気の無い日本も、ほんの80年前には世界で最も好戦的な国の一つであり、現在 パワハラや過労死が社会問題になっている国です。
人間が人間の感覚で選択・判断・行動を決めている限り、戦争は世界から無くならなく、人間としては終戦は無いのかもしれません。
人間社会が終戦を迎えるのが、人工知能が人間の知能を超えて、人間をアシストする時代まで待たなければならないのであれば、それはそれで寂しい気がします。
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